Harmony入会のきっかけ編(家族との別れ9)
前回からの続き
荷物を受け取り妻の元へ、短い距離だが足取りは重く、気まずい雰囲気のまま空港からバスに乗り込み、その後タクシーに乗り換える、妻がタクシーの運転手と交渉をしている、ここではいわゆる「白タク」が当たり前、それはそうですね、別に違法行為ではありません。
車の中で話した事は、二つの事は覚えていますが、他はよく覚えていません。
「私が子供と一年も会えない事がどんなに寂しかったか」これは覚えています。
そして、今まで渡していなかった指輪を渡しました。
これは、この気まずい雰囲気を脱しようとした為に直ぐに渡しました。
タクシーを降りるといよいよ妻のマンション、「かなり古い」これは共産主義時代に建てられた一般の住宅です。
私の世代はソ連の「鉄のカーテン」の時代を知っています、鉄のカーテンに阻まれ、情報に乏しく一般の人の暮らしと言えば、たまにテレビで長い行列を市民が作っている事、これは共産主義により賃金は一定だが物資が常に不足している状態が長く続いたため、何を配給しているのか分からなくてもとにかく行列が有ると並ぶ、そんな暮らししているイメージしかなく、初めて「あの時の鉄のカーテンの向こう側の人たちの暮らしを目の当たりにした」感覚でした。
当然エレベーターは無く階段を上がります、たまたま妻の部屋は二階でしたが…….。
ドアを開けると、いよいよ子供!!!。
では無くてもう一つのドア、ロシア最南端とは言え防寒対策はしっかりしています。
よくロシア人が「日本の冬は家の中が寒い」と言います。
ロシアの家はしっかりとした防寒対策が有るうえセントラルヒーティングで24時間部屋を暖めっぱなしなので、部屋に入るとみんな薄着です。
日本では「朝ヒーターをつけるまで部屋が寒い」この状態が有りますが、ロシアでは無いのです、妻が日本に来た時、最初はマンションに住んでいましたが、その後木造住宅に引っ越した時、石油ファンヒーターを「夜間もずーっと、つけておく」と言い出したので、私が「そんな事をしたら死んでしまう」と一酸化炭素中毒の説明を一所懸命した事が有りました。
妻は子供の体が冷える事が心配だったからですが、生まれ育った故郷の習慣は、なかなか抜けないものでしょう、私は仕事で最長二カ月程度外国に居た事はありますが、住んだ事はありません、これが定住するとなると、その国に「自分を合わせる」これは大変な事です。
自分のプライドが傷つくような場合も有ると思います。
妻も日本のごみの分別など、細かい事も含めて嫁姑の事、子供に対する夫や家族の対応など、日本に合わせる事が何かと大変だったことでしょう。
一方的に「日本に合わさせる」のではなく、「もっと妻の価値観にできる範囲で合わせてあげる事が、必要だったかな、私はそれが充分できてはいなかったかな」こんな事も自問自答しています。
そして、次のドアを開けます。
次回へ続く。