サンクトペテルブルク
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サンクトペテルブルク・エルミタージュ美術館
サンクトペテルブルク(露: Санкт-Петербург, サンクトピチルブールク, IPA:[sankt pʲɪtʲɪrˈburk] Ru-Sankt Peterburg Leningrad Petrograd Piter.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])は、ロシアの都市、レニングラード州の州都である。かつてロシア帝国の首都であった。第一次世界大戦開戦以降(1914 – 24年)はペトログラード(Петроград)、ソ連時代(1924 – 91年)はレニングラード(Ленинград, リニングラット)であった。ちなみに、英語圏ではセントピーターズバーグ(Saint Petersburg)と呼ばれる。日本では「ペテルブルク」「サンクトペテルスブルク」などと表記されることもある。
(Wikipediaより引用)
ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第二の都市である。
行政上はモスクワとともに単独で連邦市を形成しており、ロシア連邦を構成する83連邦構成主体のひとつである。
人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置する。
市街はネヴァ川河口デルタの島々と両岸に広がり運河網が発達し、バルト海において重要な港市の位置をしめる。
ネヴァ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ボルガからの船舶のバルト海への出口となっている。
港は冬季である十一月から四月に凍結してしまうが、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。
また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「北のヴェネツィア」と称されることもある。
街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたるネフスキー大通りである。
この通りは帝政時代より街の中心であり、現在でもサンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客も訪れる。
(Wikipediaより引用)
都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。
隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。
当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになる。
なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。ロシア帝国の首都として長く定着していた。
1914年、第一次世界大戦が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград)と改められた。
さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりレーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート)と改称され、この名称が半世紀続いた。
しかし、ソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。
ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる。
州名は従来どおりレニングラード州となっている。
【市の建設以前】
ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。
キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となった。ノヴゴロドはここから発するネヴァ川水路でバルト海とつながっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれた。
一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっており、1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こった。
この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルはネヴァ川の勝利者という意味のネフスキーという名を加えて以後アレクサンドル・ネフスキーの名乗るようになった。
アレクサンドル・ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、サンクトペテルブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院が建てられた。
その後はノヴゴロドを併呑したモスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがここを奪取し、以後ピョートル時代に至るまでこの地域はスウェーデン領となっていた。
【都市の歴史】
ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は建市記念日として市の祝日となっている。
モスクワとサンクトペテルブルクは母性と父性として対比されることもある。
その背景としては、モスクワが「大地信仰」を根底とするロシア(「母なる大地、母なるロシア」という表現が用いられる)を象徴する土着の都であったのに対し、ペテルブルクは西欧に倣って「人工的」に建設された西欧的・キリスト教的な父性支配を象徴する都と考えられる、ということがある。
もっとも、音楽史では西欧派のチャイコフスキーらがモスクワに拠ったのに対し、民族主義を掲げるロシア五人組がペテルブルクに集ったように、この対比は必ずしも固定的ではない。
大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。
造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。その数は1万とも言われる。
建設後はロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう歴代の皇帝により整備がおこなわれた。
1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られていった。
1757年には演劇アカデミーが創設され、エカチェリーナ2世時代の1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。
人口も増加し、1725年には10万を超え、1800年には22万人が居住していた。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱がこの街で起きたもののすぐ鎮圧された。
1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設され、1851年にはモスクワとサンクトペテルブルク間の鉄道が完成。この頃より近代化が進み始めた。
なお、1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている。
そして19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物が相次いで建設された。
また、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになった。これらの建物の一部は、現在でも残っている。
人口も増加し、1869年には67万、1910年には190万人に達していた。
ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。
その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。
ロシア・フィンランドの国境に近い為、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が勃発。
フィンランドは善戦したが、結局翌1940年、当該地域の割譲で講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。
第二次世界大戦中は、フィンランド、ドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約900日にわたる包囲を受けた(レニングラード包囲戦)。
枢軸軍は敵の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側は凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜いた。
その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。
戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違った文化や風土を維持した。
また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。
とはいえ、革命以降でサンクトペテルブルク出身者がトップに登り詰めたのはウラジーミル・プーチンが初めてである。
1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。
2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。
2006年に第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナ(ru:Стрельна)のコンスタンチン宮殿(ru:Константиновский дворец)
(Wikipediaより引用)
北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。
その一方、冬の日照時間は非常に短い。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。
(Wikipediaより引用)
サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。
- アドミラルチェイスキー区(Admiralteysky)
- ワーシリエオストロフスキー区(Vasileostrovsky)
- ヴィボルグスキー区(Vyborgsky)
- カリーニンスキー区(Kalininsky)
- キーロフスキー区(Kirovsky)
- コルピンスキー区(Kolpinsky)
- クラスノグヴァールジェイスキー区(Krasnogvardeysky)
- クラスノセルスキー区(Krasnoselsky)
- クロンシュタットスキー区(Kronshtadtsky):「クロンシュタット」を参照
- クロートヌィ区(Kurortny)
- モスコフスキー区(Moskovsky)
- ネフスキー区(Nevsky)
- ペトログラードスキー区(Petrogradsky)
- ペトロドヴォレツォヴヌイ区(Petrodvortsovy)
- プリモルスキー区(沿海区)(Primorsky)
- プーシキンスキー区(Pushkinsky)
- フルンゼンスキー区(Frunzensky)
- ツェントラーリヌイ区(中央区)(Tsentralny)
(Wikipediaより引用)
造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。
(Wikipediaより引用)
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。
そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。
『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。
また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。
音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。
こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされている。
【音楽】
- サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団(旧レニングラード・フィル)
- マリインスキー劇場
エフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。
20年間に渡り音楽監督を務めているヴァレリー・ゲルギエフのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。
オペラ・バレエだけでなくコンサート(同劇場管弦楽団として)においてもレベルの高い演奏を続けている。
【スポーツ】
- サッカークラブのFCゼニト・サンクトペテルブルクのホーム
- 1914年にチェス大会が開催された際、賞金の一部を寄付したニコライ2世が決勝進出者の5名(ラスカー・カパブランカ・アレヒン・タラッシュ・マーシャル)に与えた称号がグランドマスターの原型である。
(Wikipediaより引用)
【美術館】
- エルミタージュ美術館(冬宮殿)
- ロシア美術館
【教会・寺院・修道院】
- 聖イサアク大聖堂(イサク聖堂)
- 血の上の救世主教会
- カザン聖堂
- アレクサンドル・ネフスキー大修道院
- スモーリヌイ修道院
- カトリック聖カタリナ教会
- ルーテル聖ペテロ教会
【その他の建造物】
- サンクトペテルブルクテレビタワー
- タヴリーダ宮殿
- タヴリーチェスキー庭園
- ペトロパヴロフスク要塞
- マリインスキー宮殿
- マリインスキー劇場
- クンストカメラ
- エカテリーナ宮殿(ツァールスコエ・セロー)
- ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ)
- 青銅の騎士
- ペトロフスキ・スタジアム
- ニコラエフスキー宮殿
- 巡洋艦アヴローラ
- シュヴァロフスキー公園
(Wikipediaより引用)
歴史ある、多数の高等教育機関がある。
- サンクトペテルブルク国立大学(1724年創立)
- ワガノワ・ロシア・バレエ学院(1738年)
- サンクトペテルブルク美術大学(1757年)
- サンクトペテルブルク国立鉱山大学(1773年)
- ロシア国立教育大学(1797年)
- サンクトペテルブルク工科大学(1828年)
- サンクトペテルブルク音楽院(1862年)
- サンクトペテルブルク国立医科大学(1897年)
- サンクトペテルブルク舞台芸術学院(1899年)
- サンクトペテルブルク国立医学院(1907年)
- サンクトペテルブルク財政・経済学大学(1930年)
(Wikipediaより引用)
市の中心部から17km南にプルコヴォ空港があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。
プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。
両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが地下鉄駅へと連絡している。
【鉄道】
サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。
- モスクワ駅 (モスクワ、シベリア、クリミア地方、カフカス地方)
- ヴィチェプスク駅 (バルト三国、ベラルーシ、東ヨーロッパ諸国)
- バルチック駅 (同上)
- ラドジスキー駅 (ラドガ湖、ヘルシンキ、ムルマンスク)
- フィンランド駅 (ヘルシンキ)
エレクトリーチカ(近郊電車)もこれらの駅で発着する。
鉄道でフィンランドからモスクワへ向かう場合、サンクトペテルブルクのフィンランド駅に到着し、市内を地下鉄、バス、タクシーなどで移動してモスクワ駅からモスクワへ向けて出発、モスクワのレニングラード駅に到着することになる。
【地下鉄】
市内ではサンクトペテルブルク地下鉄が運行されており、2009年現在5路線62駅が存在する。
【道路】
市内の道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。
乗合バス、マルシュルートカ(小型乗合バス)、トロリーバス、路面電車の運行も行われている。
タクシーは駅、空港周辺近く以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。
自動車専用道路はサンクトペテルブルク環状道路が、その西南部分およびフィンランド湾のクロンシュタット島から南岸への部分以外は、ほぼ完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている。
サンクトペテルブルクから他都市への道路は、M10幹線道路(モスクワへ、欧州自動車道路網のE105号線の一部)、M11幹線道路(エストニア国境へ、同E20号線の一部)、M18幹線道路(ムルマンスクへ、同E105号線の一部)などがある。
モスクワへの道路も自動車専用道路がまだなくて、通常道路(M10幹線道路)で、ノヴゴロド州に入る近くまでは片側2車線で、その後は片側1車線でときどき追い越し車線もある状態となる。
(Wikipediaより引用)
- シュリッセリブルク
- ヴィボルグ(ヴィープリ)
- ペテルゴフ(ペーターホーフ)
以下は少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に観光バスが出ている。
- ノヴゴロド
- プスコーフ
(Wikipediaより引用)
ロシア・サンクトペテルブルク 周辺Map
掲載のホテル等は客観的な情報であり現地にて詳細の確認をよろしくお願いします。